若杉集「土を作る人々との出会い」

益子の土をめぐる対話  陶芸家 若杉 集 |構成・文 陶芸家 鈴木稔
      

第1回 土を作る人々との出会い

若杉集さんは益子産の粘土100パーセントで緻密な細工の焼締め急須などを作られています。
砂が多く、肌理が粗く、粘りの少ない益子の陶土は、焼締めの急須には最も向かないと思われてきました。
若杉さんが取り組んでいなければ、今も誰も手をつけていなかったでしょう。
この逆転の発想はどこから生まれたのでしょうか。
益子の土の新たな可能性を切り拓いた功績は大変高い評価を得て、第5回益子国際陶芸展の大賞にあたる
濱田庄司賞を受賞されています。
若杉さんが長年重ねてきた陶土の研究の成果は、今後、益子の財産として受け継がれていくことでしょう。
今回土祭に招待作家として参加される若杉集さんに若手陶芸家に向けて講演会を開いていただきました。
そのときの内容を連載でご紹介していきます。 (鈴木) 

■写真は、北郷谷「原土山」にて

【はじめに】
今回、土祭に関わるにあたって、僕はどうしても言いたいことがあるのでその話から始めましょう。
第1回の土祭が行われた3年前と、今回の状況は劇的に違っているんだということです。
今、益子の「やきもの屋」さん達は、たぶん相当にストレスを受けていると思う。
というのは、原発の事故で相当、自然全体が汚されてしまっていて、
これから我々がやきものを作っていくうえで、かなり負担になる可能性があるという現実に直面している。
まず、みんなでその辺の理解だけは共有したいと僕は思っているのです。
やはり、ちょっと避けて通れないだろうと。
なおかつ、こういう話を慎重にしなければいけなくて、あまりセンセーショナルに話してもいけないんだ
けれども、次に進むためにどうしたらいいかということをみんな肝に据えてやってほしいなと思っています。
やきものと他の仕事(農業、漁業、林業など)とそれぞれの立場で、どういう影響を受けているかということは、
少し質が違うかもしれないけれども、その辺はじっくり掘り下げたり、みんなで相談しながら、
逃げないでやってほしいというふうに思っています。それだけは言っておきたい。

【大学時代に土に触れる】
僕が土のことに興味を持ったのは、益子に来る前からです。僕は東京の池袋の生まれで、
1時間半電車に乗って千葉大学というところに通っていました。大学にはやきものの設備がほんのちょっとだけ
あって、簡単な電気窯とろくろが1台あったんです。そこで勝手に自分で始めて覚えていったんです。
都会では粘土をどうやって手に入れるかがすごく重要な課題でした。
東京の田端駅から歩いて5分ぐらいのところに、高橋粘土店という東京芸術大学御用達のテラコッタや
彫刻とかに使われる土を作っている有名な粘土屋さんがあったんです。
本当の街内のまん中にあって、陶芸用の粘土なんかを独自に調合していたり。そこを教えていただいて
買いに行ってました。当時は車も何もないし、しようがないので20キロの塊を2つ買って、担いで電車に乗って
千葉まで運んでいました。
そんな苦労があったので、始めたときから土は自分にとって大変な問題という実感と、
土をどうやっていっぱい用意すればいいのかという悩みがあって、土のことは結構強い印象があります。

【益子で土作りの現場に入る】 
大学でやきものをそうやって覚えながら、ひょんな事で1972年頃益子に来ることになったのですが、
すぐに僕は北郷谷というところに連れて行かれたのです。
その頃すでに益子焼組合では機械生産の粘土作りをしていましたが、まだ北郷谷では、入っていって一筋目と、
ぐるっと回って二筋目と、二筋目の奥に今、吉沢仁さんが1軒だけやっているけど、その両方でまだ10軒以上、
手漉しの粘土屋さんが残っていた時代で、みんな一生懸命、手漉し(てこし)粘土をつくっていたのです。
僕はお世話になっていた方が川又さんのところの土を使っていたので、そこへ連れて行っていただいた。
その頃実は大変な事情になっていまして、益子の陶土の埋蔵量のこともあり、組合員の方はもちろん自由に
土を使っていたのだけれども、組合員ではない方も相当おられまして、
そういう方たちが組合員経由で土を頼んで買ったりとか、いろいろしていたのが良くなかったのか、
益子の粘土が買えない人がずいぶん出てきている状態でした。そんなもめ事が少し始まっていた時代なんです。
その後に、ある運送会社が信楽の土を大量に持ち込んだりして売り始まったので、
土が使えない状況は解消していったのだけれども、粘土のことで益子の中でもめ事があったさなかに、
北郷谷に連れて行かれたのです。
僕はさっき言ったように、東京から千葉まで40キロの粘土を担いで行ってたんで、
都会の事情しか知らないので粘土屋さんは全て機械でつくっているものだとばかり思っていたんです。
益子に来たらとんでもないことをやっていて、北郷谷ではほとんど機械など使わないで、
粘土をつくっていました。

【土作りの厳しさを知る】
一番ショックだったのは川又さんのお母さんが冬になりかけのころに、
床桶というでっかい溜桶から土を上げている作業を見ていた時のことでした。
僕が益子に7月ごろ来て、この作業を素手でやっているのをずっと見ていたから、
肘から下が紫色になっているのを見て、僕は寒くなったからゴムの手袋をしているのだとずっと思っていたの。
作業が終わって川又さんが手を洗ったら、何も着けていなくて、手から腕までが冷たさで紫色になっていた。
それを見てびっくりしちゃって、ひどい労働環境だなと思って、こんなことをやって土をつくっているんだと。
これはえらいことだなと思って。なおかつ土のことでもめ事も始まっていて、話を聞いていくうちに、
北郷谷の手漉し粘土がどんどん後退していくということもわかってきたのです。
そんな状況のなかで、このままではまずいなと思って、粘土のつくり方を今のうちに覚えておかなければ
いけないと思って、1年かけて通って、詳しい記録をつくったんです。
そのころ僕も訳がわからず、何も知識もない状況で、写真を撮って、
土つくりのことを解説した資料をつくって記録として残しました。
この記録を今、僕と、あと窯業技術支援センターに1部と、あと個人で2人かな、持っている方がいます。
全部で5部つくったと思う。指導所に行けばあるはずです。そんなものをつくりました。

【時代の変遷と土をめぐる環境の変化】
思うところがあって、いろんな人の家に行ってその記録を見せて回ったんです。
もう少しちゃんとした記録をやはり町がつくるべきではないかということを1つ思ったのと、
手漉しの土がたぶん消滅するだろうということもわかっていたので、
益子はそれで本当に大丈夫なんだろうかということをすごく疑問に思ったので。
そのあたりを紹介していただいた作家の方とか、半年かかって何人ぐらいに話しに行ったかな。
いろいろな土の話を聞いて回ったんです。
そうしたら、皆さんがおっしゃるのは、とにかくもうわかったと。
おまえが土のことに興味を持ったのはわかった。ただ、もう時代はこれから違うんだと。
産地としてどうのこうのという時代ではなくて、みんなこれから作家として独り立ちしていく時代なんだ。
だから、土のことはわかったから、おまえはおまえの仕事をしろと、みんな言うんですよ。
あれずいぶん違うな思って、益子は職人さんがある程度多くいらして、いろいろな職人さんがかかわって
仕事をする産地なんだろうなとは大雑把に思っていたのだけれども、
僕自身もプライドのある職人になりたいと思って益子に入ったもので、だいぶ違うぞと思って。
ちょうどそのころバブルの前なんですけれども、益子じゅうが景気が良くなりつつあって、
何でも売れる時代で、みんなとにかく作家になっていくんだという、職人なんかどんどん消えていくという、
その変わり目みたいな時期だったんですね。
結局、益子で仕事をしていくというのは、特に益子の場合には職人制度はどんどん消えていく段階で、
一人一人が作家になっていく時代なんだ。そういうことのなかでしか、やはりやきものはできないのかなという
思いで僕はやきもの屋としてスタートしたんです。

【職人さんと交わりの中で】
そのときに川又さんが、さっき話した手を真っ青にしていたお母さんが、ずっと僕は1年間通ってつき合って、
いろいろ話をしたんだけれども、やきもの屋さんにはきちんと光が当たっていいわねという話をするので、
とても辛かった。僕自身はまだ下っ端で働いているだけだったのだけれども、やきもの屋さんに対して
粘土屋さんがそういう感想を持っているというのがすごく印象に残っていています。
この話は益子国際陶芸展で濱田庄司賞をもらったときに絶対に言わなければいけないと思って、
授賞式のあいさつで話をしました。僕は非常に簡単に民芸というものを理解していて、
多くのいろいろな職人さんたち、そのころはまだ薪屋さんもいたし、型屋さんもいたし、
馬で薪を運んでいた馬車屋さんもいたし、もちろん窯屋さん何軒もあったし、そういう人たちがみんなで、
益子焼きをつくっているものだと思ってました。
どうもその末端の粘土屋さんは、作家だけに光が当たっているんだみたいなことを感じはじめている。
民芸とは何なんだと僕は非常に不思議に思って、益子全体としては民芸でいこうという流れに
なっているけれども、どうも実態が少し違ってきているなという印象をすごく強く持ったんです。

【益子焼と支えてきた職人さん】
それ以来ずっと民芸というのは頭の中に引っ掛かっていて。
今はほとんどそういう末端の職人さんの仕事はないですよね。薪屋さんはいるのかな。
薪割りさんといって頼むと来てくれる職人さん。型屋さんというのもいないですよね。
僕たちの時代にはいっぱいいたんです。型起こしの仕事に来てくれる職人さん。
1週間ぐらい来て、型ものを500個とかつくってくれる。そしてまた次の窯元へ行ってつくる。
忙しいところ回って歩く職人さん。
馬車屋さんは大羽にいたんだけれども、農耕馬を2頭ぐらい持っていて、雨巻山まで行って、
切った松の木を町中の登り窯のところまで引いていくんです。それで、庭先にドンと下ろして、
その後は薪割さんが来て、薪にしていく。
僕は村澤製陶所というところに1年いたのだけれども、馬車屋さんが農耕馬を使って
松の木を雨巻山から下ろすのを目の前で見たりして、なかなかこれは、
登り窯というのは1人でできる仕事じゃないなとすごく強い印象を持ちました。
けれども、そういう職人さんたちがあっという間にいなくなっていってしまった。
その後本当に益子は作家の町になっていくわけですけれども、僕のなかではどうしても引っ掛かっていて、
何とかしなければいけないなという思いがありました。    (つづく)

わかすぎ・しゅう
陶芸家。益子町在住。1948年埼玉県浦和市生まれ。1973年千葉大学工学部工業意匠学科卒業 1974年益子町に移る 
1977年益子町北益子に窯を築き独立 2000年第3回益子陶芸展 審査員特別賞受賞 栃木県立美術館「栃木県美術の20世紀Ⅱ・
千年の扉」展出品 2001年イギリスRufford「日本」展出品 2003年第17回日本陶芸展・入選 第26回長三賞陶芸展・入選 
2004年第5回益子陶芸展・濱田庄司賞受賞 2005年益子陶芸展受賞者展 益子陶芸美術館 2009年東日本伝統工芸展・入選 
2010年第57回日本伝統工芸展・入選 益子の土を使う作家であり、長年、高舘山をはじめとする益子の自然観察を続けている。

すずき・みのる
陶芸家。益子町在住。埼玉県上福岡市出身、早稲田大学教育学部卒。大学のサークルで陶芸を始める。24歳で益子へ移り住み、
高内秀剛さんに師事した後、独立。前回の土祭では、現代アートの展示場になった築百年の古民家改修プロジェクトに参加し、
今回は、益子の土に関する公式ウエブサイトの連載で構成・聞き手を務める。震災後に陶芸家有志が立ち上げたNPO法人「MashikoCeramics and Arts Association(MCAA)」代表も務める。MCAAは、益子焼作家のネットワーク作りや国内外の
交流を進めることなどを目的としている。

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