試論「益子の風土形成のこれからについて」-ディレクターより、お礼のご挨拶にかえて

昨年末まで土祭2015風土形成ディレクターをつとめておりました、廣瀬です。 今回、このブログへの投稿の機会をいただきました。

私の仕事は、「益子の風土・風景を読み解くプロジェクト」を通して、当地にお住まいの方々と「この土地に生きることの祭り」の「この土地」の理解を、風土の調査を中心に進めてゆくこと、そしてその上に「祭り」、土祭2015を構想いただくことでした。

私は、環境デザインを研究、実践する者です。それを地域の風土に則して行うことが、近代米・欧で確立された環境デザインの日本的受容、応用としてふさわしいと考えるようになり、生態学、地理学、社会学、民俗学、歴史学、宗教学、哲学などを合わせて風土とはなにかを考え、地域の風土を調べる方法を模索してきました。土祭2015では、その技術の提供を求められ、かえって益子をよく知るたくさんの方々に教えていただきながら、自身の風土理解が進んだように思っています。

そうした私なりに、土祭2015への参加をふまえて「益子の風土に今も残るよい面はこう引き継ぎ、失われつつあるよい面はこう回復を図り、それらの可能性をこう引き出してゆくとよいのではないか」といった考えが少しずつ浮かんできました。それを報告書のあとがきにかえて、益子の方々へお伝えしたいと論考を試みています。

このウェブサイトの「益子の風土・風景を読み解く」ページ上で、「益子の風土・風景を読み解くプロジェクト」報告書はすべてご覧いただけます。しかしながら、ブログ読者のみなさまへのごあいさつの意味も込めて、報告書終章に含めた拙稿「試論『益子の風土形成のこれからについて』-あとがきにかえて」を、ここに掲載させていただきたいと思います。

風土と環境デザインにかかわる研究者兼技術者の冥利につきる、またとない機会を与えていただき、みなさまと土祭で、あるいはこのウェブサイト、ブログを通して心の交遊ができましたことに心から感謝いたします。

ありがとうございました。

 益子の風土形成のこれからは、本書第3章に示す課題の研究をはじめ、「益子の風土・風景を読み解くプロジェクト」ひいては土祭を続けながら考えてゆけるでしょう。しかしながら、今回の風土研究を通して筆者が得た発想もあります。それを試みに記してみます。

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図1 小貝川は益子から八溝山地を抜けて関東平野へ (真岡市の側から益子町を見る) 、『土祭読本』3頁

 

 益子の風土は、関東平野と八溝山地が出会うこの土地で、農業と窯業をなりわいの中心として人々が町を成り立たせながら、かたちづくられてきました (図1) 。そして、江戸に幕府が置かれて以来、400年あまりにわたって首都の郊外縁辺にこの土地が位置することも手伝い、益子の風土は今に引き継がれ、それがあって人々に好んで訪れられ、移り住まれるなどしていると見なせます。これらのことどもが「環(わ)」をなしながら、益子の風土は形成されてきました。

 濱田庄司は、それを体現していたといえます。益子焼がはじめられていたほかに、その位置や人々の暮らし方があって生まれる風土に惹かれて益子に住み、民衆的工芸に学びつつ、土と火のほかに芦沼石の粉や雑木の灰や稲の籾殻の灰そのほかを駆使して新しい技術を工夫し、益子焼きを前進させます。雑木や籾殻は、農業と関係して手に入れ続けられるものです。上に「環」とあらわしたのは、このようにことやものが巡っているがゆえです。濱田の工芸村構想には、土地の自然物を循環利用しながら文化を深耕し暮らしを立てる、人々の「環」を束ねあわせるように関係づけて、多少のほころびが生じてもすぐに誰かがそれを縫いとめることができる可能性が含まれていたと、筆者には思われます。

 そして、濱田庄司の実践においてさまざまな自然物や農作物があつかわれたように、まわりに山があり、山からは川が流れ、田畑があり、町があって、だから山仕事があり、川の水を人々がさまざまにつかい、田畑の仕事があり、町で商いが行われるなどして、工芸村も成り立ちます。そのことで、道具や衣類をつくる手仕事という仕事もまた町に生まれ、町に暮らす人々は道具や衣類を身近に得られることになります。食べ物や燃料ともども、暮らしに要るものが身近に自給できることになり、灰や余った食べ物などは、ことやものが巡るなかに還されます。こうした自然と人間のかかわりの「環」は、今日、地球規模でめざされている持続社会の必須条件でもあります。「工芸村」は、その地域的な目標像として、今日的に評価できます。

 「やわらかい風景」という一文を、筆者は『土祭という旅へ』へ寄せています。なだらかな地形変化やそれを覆う雑木、ふだんはゆるゆると流れる川や水路の水、暮らしに関係して山や丘のすそから引き下ろされたかのような木々に家々が見え隠れするさまなどを指して、筆者は益子の風景を「やわらかい」と形容してみています。それを、今もう一度考えてみると、人々の暮らしや、それぞれのなりわいにおける創意のあと、考えたことや考えて体を動かしたあとが風景から感じとれるようなところが、風景に「人間性」がそなわって見えることにつながり、そのこともあって「やわらかい風景」があらわれていると思えてきます (図2)。

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図2 益子の「やわらかい風景」、その一例 (道祖土にて描く) 、『土祭2015公式ガイドブック』40-41頁

 

 ただし、益子の風景にそなわる「人間性」は、人々が当地で生きる条件でもある自然に基本的に則しつつ、時には濱田のように先鋭的に接しもしてきた、人間による自然へのさまざまな応答の結果と見なすことができます。このような自然への人間のはたらきかけがあって風土が形成され、その姿である風景は益子の地なりの「人間化」を遂げてきたといえます。それは、たとえば南東に「水晶」の頂を持つ低山の群を擁し、ひときわ高い雨巻山がその名の通り雲をとどまらせるなどしながら梅雨の少雨をみちびき、とりわけ稲作をむずかしくし、一方で山々の頂からはこばれるケイ素は稲を強くして、稲の籾殻灰が窯業にも次の年の農業にもつかえ、といった自然と人間との関係があっての「人間化」です。

 こうした益子の風景、風土にそなわる「人間性」は、益子の風土形成の内実と目せます。したがって、益子風景、風土の「人間性」の理解が、益子の風土形成のこれから、すなわち風土に学びながら地の理(ことわり)を生かした持続する地域社会の構築をめざしてゆくことの必須条件と考えられます。そして、風土を形成する主体は町に暮らす人々であり、人々の結びつきと自然との「環」が、風土を先代から引き継ぎ次代へ受け渡す原動力のようにはたらいてきました。だから、「益子の風土・風景を読み解くプロジェクト」でおこなわれてきた、聞き取りやつどいを介した町民共同の風土研究がつづけられ、その成果をもとに町として益子がめざす市民共同の地域経営の目標像 (図3) が見さだめられ、その実現に向けた方針が立てられ、それらにもとづく事業計画が、地域行政、企業活動、市民活動の別を問わずつくられ実行される必要があります。この土地で生きる知を受け渡す教育にも、結びつけられるべきと考えます。

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図3 古川町 (現岐阜県飛騨市) における第五次総合計画目標「朝霧たつ都」とこれにもとづく農村環境デザイン政策を紹介したドイツ、エッセン大学環境デザイン学科講演ポスター、2003年。講演は筆者による。「朝霧たつ都」は、当地の高校地学部が研究を20年継続するなど町民に身近な朝霧 (盆地霧) の発生を指標に町域の良好な水循環をたもち、自然と雅びな飛騨の町並みや農村の風景の共存を、次代、未来に継承されるべき風土の理想像とし、地域経営の資本と位置づけたもの。

 

 なお、風土研究からわかったことをもとに地域経営の目標像を実現するための、かたちのない仕組みやかたちのある建物などをつくる技術を、日本の多くの技術者が持ちあわせていないことを、念頭におく必要もあります。彼らに確たる地域研究がおこなえず、それだけの成果にもとづく計画をした経験がないことが理由の一つといえます。また、思考の技術が未発達で、即物的で安易な課題解決策しか立てられない例が多いことを問題視しています。たとえば、建物をたてるのに山のかたちや城郭のかたちを模したり、どのような生活知の結果として古くから残る家屋のかたちや色や材料がそう選ばれたかを自然科学的にも人文科学的にも理解できずに写すようなことは、地域的デザインといえません。あるいは、地域研究の成果を十分に共有せずに利害関係者間の合意形成を図っても、それが当地の自然や文化に照らして合理的といえるものになるかどうかは、偶然にゆだねることにしかなりません。同様に、かたちの有無を問わず、ほかの土地でうまくいったからとなにかをまねるだけまねたとして、成功は偶然の産物でしかないでしょう。さらに、そのように「地域的に」検討した結果がつまらないものにしかならないからと、前衛風に新しいなにかを発想しようとしても、自然と人間の歴史を参照しないそれは、個人の恣意的で貧弱な思いつきにしかならないのではないかと想像されます。

 益子の風土形成のこれからにおいて懸念される問題も、示しておきます。少雨と地質・地形に由来する、水資源の利用管理面に、筆者は不安を覚えます。小貝川をのぞいて、益子を流れる川は水源を町域に有し、水を集める範囲は限られます。南東の山々の頂を「水晶」とあらわしましたが、水晶と同じ二酸化ケイ素からなるチャート層のほかは主に砂岩と泥岩からなり、その裂け目に水がしみやすく、これらの岩を覆う木々の葉が落ちて分解された腐葉土の層、表土に水が薄い膜のようにつたわりながら丘や低地へとくだり、斜面の途中や下にしみだしたものを、人々はため池やてびに受けて、大切にもちいてきました (図4) 。ことに七井では、七つの井(水の湧くところ)が地名とされているほどです (図5) 。

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図4 棚田のあとにつくった畑の地表に浮きでたしぼり水 (田野) 、『土祭2015公式ガイドブック』48頁

 

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図5 七つの井のひとつ「瀧の井」 (七井) 、同書 49頁

 

 このように、山や丘の保水力にたよることが、益子の水利用の基本となります。そして、益子の山や丘の、鎮守の杜のようにほとんど人手を入れずに守られてきたところはそのまま守り、人の手が入れられたところは木々の利用を図りながらすこやかに保ついとなみが求められます。「工芸村」のような考え方は、このことにも適しています。

 一方、ため池やてびに受けられたしぼり水は、水路や川へ流されながらこれらの岸や底から地中へしみ、低地の地下水をやしなってきました。地下水は、井戸水として利用もされました。ところが、全体に「やわらかい風景」をかたちづくって見える益子でも、川や水路の岸や底は多くがコンクリートをつかってかためられ、地中への自然な水の動きがはばまれています (図6) 。また、そうした川や水路は植物や微生物が育つ環境になく、水の生物浄化がおこなわれない状態にあります。それとともに、乏しい水の水質は、生活雑排水や産業排水の川への混入によってあまりよくありません。

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図6 道祖土川では、泥岩の河床はそのままに、護岸をコンクリートでかためている (道祖土) 。同書 42頁

 

 仮に、この問題の解決を図ってゆくとします。土祭への公共投資の一環として「益子の風土・風景を読み解くプロジェクト」が実行され、その成果として益子の風土性が明らかにされてきています。ひとつには、益子の風土は、当地の自然と人間の関係史の結果として「やわらかい風景」を擁するにいたっています。そのような土地と風景の印象は、土祭の来訪者の声などを確かめた結果からもわかる通り、魅力要素となっています。しかし、川や水路などの水辺は、上に述べたように益子風景の弱点であると思います。そして、その水質も問題であり、さらには水資源利用管理の脆弱性がより大きな問題として根本に横たわっています。

 これらの解決を図るために、生活雑排水や産業排水の混入を防ぐ努力を、これまでにも増しておこないます。山や丘の保水力を高めるために、人手のかけられた樹林の利用管理を徹底します。いずれの施策も個別には実現がむずかしく、風土に根ざした益子の地域経営の目標像があらかじめ町民と検討、合意されているとともに、「工芸村」のような文化と産業をともに振興し雇用も生む具体的方針が、その下に位置づけられている必要があります。

 それらが実現できたとして、水がかがやき、山や丘はすこやかに見えるようになるでしょう。「やわらかい風景」もまた、かがやきを増して見えるようになることと思います。さて、それでも川や水路の岸や底をつくりかえねば、植物や微生物が育つ、生物浄化の期待できる環境にはなりません。これは、ため池などにも同じくいえることです。解決策は、すでに益子の各所に見あたります。身近に得られる石を積んだ護岸が残る水路 (図7) や家の庭の池がありますし、聞き取りでは山のそだを編んで柵をつくることを益子でもしたとうかがっています。石垣は木の根などにおされて崩れることもあり、そだ編柵 (図8) はそだをときどき取りかえる必要があります。そうした日常の補修や管理が、公益性の高い雇用に結びつけられます。そだの交換は、人手の入れられた山や丘の木々をつかい、山や丘の保水力を維持する仕事にもなります (図9) 。

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図7 芦沼石を積んで護岸をもうけたと見られる水路 (大沢)

 

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図8 そだ編柵を護岸にもちいた割石川 (新潟県新発田市)

 

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図9 そだを採るために管理される山林 (新潟県新発田市)

 

 ため池もてびのある田も、川も水路も、七つの井も、さらには生物がどれだけもどってくるか試験観察がつづけられる蟹澤の井の下の休耕田なども、いってみれば「益子の水辺」です。これらが上に例を挙げたような自然に近しい、そして伝統の継承にもあたる工法をもちいてつくりかえられると、植物や微生物が育ち生物浄化が期待できる以上に、およそどの地区の「風土・風景を読み解くつどい」でも集まられた方々がなつかしげに子どものころの思い出話をされていた魚や水生昆虫などがふたたび棲める環境が回復できます (図10) 。

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図10 近代的な水路然とした百目鬼川の現状 (「百目鬼川をきれいにする会」活動より。2014/07/06 城内・道祖土)

 

 このように生き生きとした水辺が「やわらかい風景」にくわわることは、益子の次代をになう子どもたちが育つにも、大人たちが折々に昔をなつかしむにも、益子や土祭が好きで訪れられる方々が散策をされるにも向くと考えられます (図11) 。あるいは、益子の外から子どもたちが訪れて滞在し、遊び、学ぶにも向くのではないでしょうか (図12) 。そう考えれば、こうした環境の再生は地域経営における、いわゆる「外貨獲得」にも結びつけてゆけます。そして、もとはといえばこの発想は、水資源の利用管理に対する不安要因の解消を目的として得たものです。益子の風土と人に「環」を見いだしたことから、筆者はこう考えるにいたったと思い返しています。

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図11 民・産・官で清流を再生した源兵衛川 (静岡県三島市)

 

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図12 「土祭風景遠足」で訪れた桜の井 (2015/09/22 七井) 写真提供: 土祭事務局

 

 益子の風土のこれからに関した試論は、ここで書き終えることにします。最後に、益子を幾度も案内してくださった方々、ご研究の成果を惜しみなく伝えてくださった方々、聞き取りに際してご自宅に招き入れてくわしくお話を聴かせてくださった方々、貴重な資料をご提供くださった方々、こちらがお話をうかがうべき方をご紹介してくださった方々、主催される行事にお誘いくださった方々、風土・風景を読み解くつどいやその報告会にご参加くださった方々、そしてお世話になった土祭事務局と土祭実行委員会および益子町役場のみなさまに感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。

(土祭2015風土形成ディレクター 廣瀬俊介)

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