花あかり
花あかり、という言葉がある。花のつぼみが開いて夜でも辺りがほの明るく感じることをさす言葉だ。しかし、これはそのような現象をただ単純に描写した言葉ではなく、「花と出会った」その瞬間のひとの内面をも指しているように思う。
月の明かりはなくてもいいかもしれない。新月の夜の漆黒の闇のなか、ヤマユリの匂いがふぁっとわたくしに届いたその瞬間はっとして、花というモノを超えたその存在を感じることがある。その一線を越えたその存在と、そしてその存在を感じたわたくし、その内面に起きた変化を、花あかり、と言ってしまってもいいと思う。
考えてみれば、人は、「花と出会う」というところから既に遠く離れてしまっているのかもしれない。花屋で売られている花は確かに美しいかもしれないけれど、ただそれだけでは私たちはどこへと連れてゆかれることはない。『ドウメキのコウホネ』は、「花と出会う」ということはどういうことなのか、そんなところから始めているような気がする。
4月、皆既月食の日にふとした発想でどんど焼きを行った。そして、どんど焼きの火が花のメタファーだったということに後日気がついた。ドウメキの川の流れにいまいちどコウホネという花が咲いて欲しい、という思いが咲いた、花だったのだ。
つい先日、コウホネの畑とよばれる場所に水が張られた。その際、ドウメキ川の源流の水を山茶碗に注ぎ、畑の口にお供えさせてもらった。その山茶碗は、コウホネの種が眠る地層から掘られた粘土が使われ、どんど焼きの火によって焼かれたものだ。
どうかコウホネがふたたび咲きますように、そしていつまでもドウメキの水が絶えませんように。
私にとってドウメキのコウホネは遊びであるが、その遊びは、とてつもない遊びになりつつある。(文:町田泰彦/写真:矢野津津美)