レポーターコラム|古墳群こぼれ話

小宅古墳群であったとさ

これは、私が、夏の終わりと秋のはじまりと混ざり合う季節の夕暮れ時に、古墳に住む アナグマさんから聞いたおはなしです。

どうやって、アナグマさんと仲良くなったのかって?

ひみつ、ひみつ。

小宅古墳群を管理している「里山の会」を知ってるかい?

そのメンバーの一人、床井さんから聞いた話を紹介するよ。

 

小宅の生き字引みたいなおじいさんだよ。

元は消防隊員なんだって。力仕事はお手のもの。

 

竹林だらけでうっそうとしていた古墳群を

不屈の精神で、今の観光地のような状態になるまで整備し、それをキープし続けているよ。

 

「ふくつのせいしん」わかるかな。

里山の会にはこんな合言葉があるんだ。『くじけない、あきらめない、やりとげる』

 

つまりね、ちょっと辛いことがあったって、うまくいかないことがあったって、やろうって決めたことは途中でやめないってこと。

床井さんは1人でも、自分の生まれ育った小宅にあるこの場所を、整った美しい状態であるように、手をかけ続けてきたんだ。

古墳を今一度紐解こう

「古墳」それはね、

昔の偉い人のお墓。偉い人のお墓だから、大きいんだ。

 

日本の歴史に「古墳時代」と区分されている時代がある。3世紀後半から350年ほど続いた時代。お米の栽培が始まった弥生時代が終わりをつげ、権力や富を持つ人が現れ始めた時代。

奈良県(の大和朝廷)を中心に、大型の古墳が作られ始め、それが徐々に益子町がある関東地方にも伝わり、古墳時代後期(6世紀ごろ)の群衆墳が各地にも作られるようになったんだ。

 

小宅の古墳は5世紀、6世紀ごろにできたって言われているよ。

小宅古墳群には18基の古墳がある。そのうち、5基が前方後円墳。よほど力がある人が作ったのんじゃないかな。この地方を収めていた豪族がいたことの証だね。

 

ちなみにね、

古墳時代から人々の営みがこの地であったってわけじゃなさそうだよ。

実はその前から生活の形跡があった。

矢尻なんかも出てきているんだって。矢尻は、狩猟民族の生活の跡。

つまり、縄文時代からこの地で、人々の祖先は暮らしてきたってことじゃないかな。

 

想像してみると、不思議な気持ちになるよね。

古墳群が荒れてしまった原因とは

里山の会のメンバーが古墳を整備して、今の状態になったことは、さっきも言ったよね。

「整備しないと荒れ放題だった」

荒れ放題っていうのはね、雑草が生え放題、竹林は放置されて(繁殖力がすごいので)伸び放題、太陽が地面まで届かず地面はジメジメ、くらーい感じ。

 

実際、放置竹林や放置された森は現代の人間たちが抱える課題だよね。

昔はそんなに意識的に手をかけなくても、元気で生き生きとした森だったんだよ。

 

なんでだか、考えてみて。

答えはね、「昔は、木と人は仲良しだったんだ」っていうトトロに出てくる、お父さんのセリフ通り、

木と人、山と人、森と人は仲良しだったから。

 

床井さんが言っていたよ。

昔は、竃で火を焚いた。燃料は木材。昔は里山は資源の源であった。木材も肥料も。

ぐるぐる循環していたから、下草も生えなくて、荒れ放題ではなかった。

 

一時お蚕さんが流行り、桑を植える土地として農協に貸していたこともあったそう。

その期間も終わって、今では意識して手入れしないと滞る(荒れてしまう)ようになってしまったんだよ。

 

それにね。この近くの川も綺麗だった。もっと狭い川だったけど、泳げるような川で。蛍も飛んでいたんだよ。

蛍ね、最近めっぽう見ないよね。

生活の仕方を昔に戻すことが一番の解決方法かもしれないね。

 

けど、それこそどれだけ偉い人に、「昔に戻してください」って言われても、もう戻せないよね。

アナグマさんは、こう言い残して去っていった

じゃあ、ぼくはもう行かなくちゃ。

今回の土祭で、僕のパネルも作ってくれて、ありがとう。

アナグマって、どんな動物だったっけって検索してくれるきっかけになったんじゃないかな(笑)

僕もタヌキくんも、キツネくんも。この古墳群や近くの森で幸せに生きているよ。

そのことを忘れないで。

 

古墳ができたのが1700年くらい前かな。

その前からずっと仲良くしてきた森と人。

その事実も、忘れないでね。じゃあね、また会おうね!

※里山の会の床井さんからお聞きしたお話や、史実を元に脚色して文章を書きました。ご了承ください。

土祭レポーター2021 橋口奈津子 写真(アナグマの写真のみgetty imagesより引用)・文

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