若杉集「益子の人々と風土に導かれて」


                 最後の手濾し粘土職人だった川又さん(昭和48年撮影)

益子の土をめぐる対話  陶芸家 若杉 集 |構成・文 陶芸家 鈴木稔

 周囲からやめたほうがいいと諭されながらも、若杉集さんは土のテストをこつこつと重ね、
益子の土100パーセントの焼締め急須を作ることに成功しました。
その強い意志の背景には、土を作る職人さんへの敬意と益子の風土への慈しみがありました。
人とのかかわりや自然観察を通じて、自分にしかできない仕事を見出した若杉さん。
今回は作家としての歩んでこられた道のりをご紹介します。(鈴木)

第3回 「益子の人々と風土に導かれて」

【独立10年目の転機】
 僕は村澤製陶所等での修行を終えて1977年に独立をしましたが、はじめの10年間は量産ものを中心にやっていました。その間に益子は次第に景気が良くなって、何でも売れる時代になっていきました。
 僕が予見したように職人制度はどんどん消えていき、個人作家が一人で全ての仕事をこなす傾向が強くなっていきました。案の定、かつて10軒以上あった北郷谷の手漉し粘土屋さんは次々と廃業してしまって、僕がお世話になった川又さんが最後の1軒になり、とうとう1986年にやめることになりました。何とか存続できるように手を尽くしたのですが、結局最後に5トンの粘土を作って閉めてしまいました。もう2度と手に入らなくなる川又さんの最後の手漉し粘土5トンのうち2トンを、益子焼共同組合を通して買いました。 
 2トンというと、ご飯茶碗とか湯呑みとか、量産すればあっという間に使ってしまう量なので、これはもったいないなと思って、どう使おうか散々悩みました。独立時の借り入れも10年ぐらいである程度片付いたので、もう一回原点に戻って、ストレスがたまらないような形で仕事がしたいと思っていた頃でした。

【原点に還る】
 その原点というのは大学時代にさかのぼります。
 千葉大の学生のころ、音丸香先生という方の造形講座に籍を置いていました。彫漆家の先生で、その音丸先生のお父様が音丸耕堂さんという、彫漆の人間国宝だったんです。何層にも何層にも色漆を塗って、それを切って張りつけ、厚い漆の層にしたり組み合わせたりして、さらにそれを彫っていって、きれいな花模様とか、連続模様とかを出して、蓋物を作ったり、香炉を作ったりという仕事をしていました。こんな仕事が人間にできるのかというぐらい、緻密な精巧なものでした。まさに神業です。
 僕はまだ学生だったから、これが工芸だとそのときに思い込んでしまったんです。今でもそう信じているのですけれども、やはり人間というのは極めると、とんでもないことができるなと思ったんです。音丸耕堂さんは99歳まで仕事をしていたと聞いています。もう亡くなられましたけれども、生活は質素で、お会いしたときは和服を着て窓に向かって静かに仕事をされていましたね。植物のスケッチが束となって積んであった記憶があるのですが、それをていねいに彫っておられました。
 1970年代までは、人間国宝はそういう方が多かったと思います。日下田染物工房さんのところに型染めの古い型があります。三重県の伊勢で作られたもので、柿渋を使った和紙で出来ています。伊勢の型紙といわれ、細かい文様を糊で防染するときに使われます。それを作る職人さんが人間国宝になっていたと思います。突き鑿(のみ)というやりかたで、片顎に鑿をあてて、狭い枠に細かく綺麗に穴を開けていくのですが、穴が文様となって整然と並び、機械では出せない、手仕事ならではの揺らぎが生まれます。その仕事を永年やってるので、鑿があたる片顎は硬くなって盛り上がっていました。
 そういう方々が人間国宝に認定されていたので、僕は職人さん対して本当に尊敬の念を持っていましたし、職人さんでも極めれば途轍もないことができると信じて益子に入っていったわけです。
 やきものも自分の思いを突き進めていけば、頑張って何十年もやれば、自分の世界がつくれるだろうと思っていました。今でも実は思っていますけれども、なかなかうまくいきません。ただ、自分でこれをやってみようと思ったことは、とことんやると、自分でも想像したことのないようなことが、きっとできる、人間はそういう力を持っていると思うようになった。それが僕の原点にありました。

【急須に挑む】
 川又さんが作った最後の手漉し粘土を手に入れてから、この貴重な土をどう活かしたらいいか、いろいろと考えました。
 すでに益子の粘土としては良質でしたが、さらにもう一回漉すことで、焼き締め急須を作ることは出来ないかと考えました。細かい作業が好きだし、益子の土の付加価値を上げるためには急須というのはいい仕事なのでないか、とにかくそれでやってみようということで、40歳前後、3年ぐらいかけて、それまでやってきた量産の仕事とダブらせる形で急須の仕事へ移行したんです。
 はじめの頃、益子の土で焼き締めの急須を作っている人がないので、窯業指導所に相談に行きました。職員の見解としては、基本的には無理があるのでやめたほうがいいということでした。特に粘土を水簸(水に溶かしてふるいで漉す)して細かい土にしたいと話したところ、本来の益子の砂目の粘土から珪砂といわれる細かな砂を漉して取り除いてしまうと、たぶん耐火度がぐっと落ちてしまって変形するだろうということを言われました。
 でもやってみなければわからない。土というのは意外と形によって歪まないこともあるし、真っ平らなものをつくればへたるけど、丸い物をつくれば保ったりしますよね。そんなこともあるから、ていねいに丸い急須をつくれば少しは形が保ったりすることもあるし、とにかくやってみようということでやり始めました。
 水簸のやり方にもよりますが、けっこう耐火度が強くて、1260度を超えて焼いても、形を保って潰れないのです。益子の珪砂というのは、もしかしたらガラス質が多いのかもしれない。そうすると、逆にガラス質を取ってしまえば、耐火度が弱くなることはないかもしれない。これはいけそうだなと確信して、一気に急須にシフトしていきました。

【発想の逆転へ】
 陶芸メッセ益子の裏側、明智鉱業の隣に神谷茂さんが作っている日陰粘土があります。陶芸メッセの建物がある高台の北側一帯が日陰と呼ばれている土地で、そう名付けられたようです。以前は陶芸メッセの裏斜面付近を深く掘っていましたが、現在は採掘は終了して、掘り出して貯めてある原土の山を漉して粘土を作っています。
 神谷さんが掘っていた鉄分を多く含む日陰黄土は益子で一番良質な黄土と言われていました。真っ黄色な黄土で、濱田窯や塚本製陶所とか、大きな窯元はみんな使っていました。日陰の黄土は主に化粧泥として使われていて糠釉を掛けると良い色に焼きあがりました。耐火度が低いので、本体を作る土として単味で使われることはありませんでした。
 それを分けてもらって、僕もはじめは化粧泥に使っていましたが、この黄土を本体の素地として使ってみようと思いました。原土を漉して作った粘土は、何とかロクロが引けるのです。鉄分が多い土だから、やはり温度管理をきちんとしなければいけないのですが、1220度ぐらいまで焼いても形を保っていました。焼き方によっては、常滑の朱泥みたいなものができることもわかった。今の僕の赤い色の急須はそこから始まっているんです。でも、日陰の黄土が実はもう手に入らなくなってしまい、ほとんど使い切ってしまいました。神谷さんのところで今も赤土として売っているけれども、木節とかいろいろな土が混ざって入ったもので、黄土自体は売っていません。
 その後、原土組合で黄土を売り始まって、山の上を削った土なんだけれども、それも何とか使える黄土なので僕はいまそれを使っています。

【土を探す日々】
 急須を作り始めてから、ハッチョウトンボ等の生息地調査を行うようになって、同時に粘土を探し回りました。3年がかりで益子の沢を全部歩いたので、だんだん益子の粘土の分布状況がわかってきました。益子には異なった性質の土がいろんなところに少しずつ存在するのです。少しだけサンプルを取ってきて焼いてみると、結構ちゃんと焼けたりするので、おもしろくて次々とテストしました。
 急須に使えそうだとなると、法務局へ行って地主さんを探し出して、直接交渉して、土を掘らせてもらいました。掘るのは手作業の範囲で、お金の代わりにその土で焼いた急須を1つ差し上げるという約束で、大体それで了解してもらえました。そんなふうにして使える土を少しずつ増やしていって、最終的に今15種類ぐらいを使用しています。
 それぞれ性質の異なる土をどう使うか。黄土なら耐火度が弱いので低い温度で焼くとか、浅黄土などは耐火度が強いけれども、焼き方を工夫して焼き上がりの色を変化させるとか、僕はなるべく取ってきた土を他の土と混ぜないで急須を作っています。


        川俣さんが廃業してしばらくして手濾し粘土作りの仕事を始めた吉沢仁さん(平成12年撮影)

【土へのこだわり】
 川又さんの手漉し土をどう使うかというところから始まって、急須を作ることになって、いろいろな土に出会っていくことで、今の仕事につながっているというのが、40歳ごろから現在までの、僕の23年間の仕事の流れなんです。
 僕は、そういう意味では土へのこだわりがずっとあったから、作品名に「日陰○○土」とか「川又○○土」とか「吉沢水簸土」とか、職人さんや固有名を必ず入れることにしています。それが僕なりの粘土を作る職人さんへの敬意の表現なので、ずっとそうしてきました。「作家だけに日があたる・・」民芸産地という痛い言葉への、僕なりの回答のつもりです。
 僕の場合には、たまたま自分の中の引っ掛かりが粘土だったので、ずっと粘土にこだわってやってきたのですが、別に粘土でなくても良いのです。益子にはいろいろな素材があるわけだし、あるいは素材でなくてもいいのかな、風土を自分の中に取り込むということでもいいと思うのだけれども、益子とのかかわりを見つけることが大切だと僕は思います。せっかく益子にいるのだから、自分の中の何か益子ならではの部分というのが1つでも見つかると、自分の世界が拓けるのではないかなと思っているんです。
 皆さんも、土でなくて全然構わなくて、何でもいいんだけど、「自分の中の益子探し」をしてほしい。
やはり自分で工夫をして、自分にしかできない仕事を目指してほしいと僕は思います。もちろんそれは身近なところから素材を引っ張り出すことでしかできません。
 そうすると、これだけ多くの若い作家さんがいるんだから、いろいろな益子のバリエーションが出てきて、今よりずっと面白くなるはずです。

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