若杉集「土を作る人々との出会い」

益子の土をめぐる対話  陶芸家 若杉 集 |構成・文 陶芸家 鈴木稔
      

第1回 土を作る人々との出会い

若杉集さんは益子産の粘土100パーセントで緻密な細工の焼締め急須などを作られています。
砂が多く、肌理が粗く、粘りの少ない益子の陶土は、焼締めの急須には最も向かないと思われてきました。
若杉さんが取り組んでいなければ、今も誰も手をつけていなかったでしょう。
この逆転の発想はどこから生まれたのでしょうか。
益子の土の新たな可能性を切り拓いた功績は大変高い評価を得て、第5回益子国際陶芸展の大賞にあたる
濱田庄司賞を受賞されています。
若杉さんが長年重ねてきた陶土の研究の成果は、今後、益子の財産として受け継がれていくことでしょう。
今回土祭に招待作家として参加される若杉集さんに若手陶芸家に向けて講演会を開いていただきました。
そのときの内容を連載でご紹介していきます。 (鈴木) 

■写真は、北郷谷「原土山」にて

【はじめに】
今回、土祭に関わるにあたって、僕はどうしても言いたいことがあるのでその話から始めましょう。
第1回の土祭が行われた3年前と、今回の状況は劇的に違っているんだということです。
今、益子の「やきもの屋」さん達は、たぶん相当にストレスを受けていると思う。
というのは、原発の事故で相当、自然全体が汚されてしまっていて、
これから我々がやきものを作っていくうえで、かなり負担になる可能性があるという現実に直面している。
まず、みんなでその辺の理解だけは共有したいと僕は思っているのです。
やはり、ちょっと避けて通れないだろうと。
なおかつ、こういう話を慎重にしなければいけなくて、あまりセンセーショナルに話してもいけないんだ
けれども、次に進むためにどうしたらいいかということをみんな肝に据えてやってほしいなと思っています。
やきものと他の仕事(農業、漁業、林業など)とそれぞれの立場で、どういう影響を受けているかということは、
少し質が違うかもしれないけれども、その辺はじっくり掘り下げたり、みんなで相談しながら、
逃げないでやってほしいというふうに思っています。それだけは言っておきたい。

【大学時代に土に触れる】
僕が土のことに興味を持ったのは、益子に来る前からです。僕は東京の池袋の生まれで、
1時間半電車に乗って千葉大学というところに通っていました。大学にはやきものの設備がほんのちょっとだけ
あって、簡単な電気窯とろくろが1台あったんです。そこで勝手に自分で始めて覚えていったんです。
都会では粘土をどうやって手に入れるかがすごく重要な課題でした。
東京の田端駅から歩いて5分ぐらいのところに、高橋粘土店という東京芸術大学御用達のテラコッタや
彫刻とかに使われる土を作っている有名な粘土屋さんがあったんです。
本当の街内のまん中にあって、陶芸用の粘土なんかを独自に調合していたり。そこを教えていただいて
買いに行ってました。当時は車も何もないし、しようがないので20キロの塊を2つ買って、担いで電車に乗って
千葉まで運んでいました。
そんな苦労があったので、始めたときから土は自分にとって大変な問題という実感と、
土をどうやっていっぱい用意すればいいのかという悩みがあって、土のことは結構強い印象があります。

【益子で土作りの現場に入る】 
大学でやきものをそうやって覚えながら、ひょんな事で1972年頃益子に来ることになったのですが、
すぐに僕は北郷谷というところに連れて行かれたのです。
その頃すでに益子焼組合では機械生産の粘土作りをしていましたが、まだ北郷谷では、入っていって一筋目と、
ぐるっと回って二筋目と、二筋目の奥に今、吉沢仁さんが1軒だけやっているけど、その両方でまだ10軒以上、
手漉しの粘土屋さんが残っていた時代で、みんな一生懸命、手漉し(てこし)粘土をつくっていたのです。
僕はお世話になっていた方が川又さんのところの土を使っていたので、そこへ連れて行っていただいた。
その頃実は大変な事情になっていまして、益子の陶土の埋蔵量のこともあり、組合員の方はもちろん自由に
土を使っていたのだけれども、組合員ではない方も相当おられまして、
そういう方たちが組合員経由で土を頼んで買ったりとか、いろいろしていたのが良くなかったのか、
益子の粘土が買えない人がずいぶん出てきている状態でした。そんなもめ事が少し始まっていた時代なんです。
その後に、ある運送会社が信楽の土を大量に持ち込んだりして売り始まったので、
土が使えない状況は解消していったのだけれども、粘土のことで益子の中でもめ事があったさなかに、
北郷谷に連れて行かれたのです。
僕はさっき言ったように、東京から千葉まで40キロの粘土を担いで行ってたんで、
都会の事情しか知らないので粘土屋さんは全て機械でつくっているものだとばかり思っていたんです。
益子に来たらとんでもないことをやっていて、北郷谷ではほとんど機械など使わないで、
粘土をつくっていました。

【土作りの厳しさを知る】
一番ショックだったのは川又さんのお母さんが冬になりかけのころに、
床桶というでっかい溜桶から土を上げている作業を見ていた時のことでした。
僕が益子に7月ごろ来て、この作業を素手でやっているのをずっと見ていたから、
肘から下が紫色になっているのを見て、僕は寒くなったからゴムの手袋をしているのだとずっと思っていたの。
作業が終わって川又さんが手を洗ったら、何も着けていなくて、手から腕までが冷たさで紫色になっていた。
それを見てびっくりしちゃって、ひどい労働環境だなと思って、こんなことをやって土をつくっているんだと。
これはえらいことだなと思って。なおかつ土のことでもめ事も始まっていて、話を聞いていくうちに、
北郷谷の手漉し粘土がどんどん後退していくということもわかってきたのです。
そんな状況のなかで、このままではまずいなと思って、粘土のつくり方を今のうちに覚えておかなければ
いけないと思って、1年かけて通って、詳しい記録をつくったんです。
そのころ僕も訳がわからず、何も知識もない状況で、写真を撮って、
土つくりのことを解説した資料をつくって記録として残しました。
この記録を今、僕と、あと窯業技術支援センターに1部と、あと個人で2人かな、持っている方がいます。
全部で5部つくったと思う。指導所に行けばあるはずです。そんなものをつくりました。

【時代の変遷と土をめぐる環境の変化】
思うところがあって、いろんな人の家に行ってその記録を見せて回ったんです。
もう少しちゃんとした記録をやはり町がつくるべきではないかということを1つ思ったのと、
手漉しの土がたぶん消滅するだろうということもわかっていたので、
益子はそれで本当に大丈夫なんだろうかということをすごく疑問に思ったので。
そのあたりを紹介していただいた作家の方とか、半年かかって何人ぐらいに話しに行ったかな。
いろいろな土の話を聞いて回ったんです。
そうしたら、皆さんがおっしゃるのは、とにかくもうわかったと。
おまえが土のことに興味を持ったのはわかった。ただ、もう時代はこれから違うんだと。
産地としてどうのこうのという時代ではなくて、みんなこれから作家として独り立ちしていく時代なんだ。
だから、土のことはわかったから、おまえはおまえの仕事をしろと、みんな言うんですよ。
あれずいぶん違うな思って、益子は職人さんがある程度多くいらして、いろいろな職人さんがかかわって
仕事をする産地なんだろうなとは大雑把に思っていたのだけれども、
僕自身もプライドのある職人になりたいと思って益子に入ったもので、だいぶ違うぞと思って。
ちょうどそのころバブルの前なんですけれども、益子じゅうが景気が良くなりつつあって、
何でも売れる時代で、みんなとにかく作家になっていくんだという、職人なんかどんどん消えていくという、
その変わり目みたいな時期だったんですね。
結局、益子で仕事をしていくというのは、特に益子の場合には職人制度はどんどん消えていく段階で、
一人一人が作家になっていく時代なんだ。そういうことのなかでしか、やはりやきものはできないのかなという
思いで僕はやきもの屋としてスタートしたんです。

【職人さんと交わりの中で】
そのときに川又さんが、さっき話した手を真っ青にしていたお母さんが、ずっと僕は1年間通ってつき合って、
いろいろ話をしたんだけれども、やきもの屋さんにはきちんと光が当たっていいわねという話をするので、
とても辛かった。僕自身はまだ下っ端で働いているだけだったのだけれども、やきもの屋さんに対して
粘土屋さんがそういう感想を持っているというのがすごく印象に残っていています。
この話は益子国際陶芸展で濱田庄司賞をもらったときに絶対に言わなければいけないと思って、
授賞式のあいさつで話をしました。僕は非常に簡単に民芸というものを理解していて、
多くのいろいろな職人さんたち、そのころはまだ薪屋さんもいたし、型屋さんもいたし、
馬で薪を運んでいた馬車屋さんもいたし、もちろん窯屋さん何軒もあったし、そういう人たちがみんなで、
益子焼きをつくっているものだと思ってました。
どうもその末端の粘土屋さんは、作家だけに光が当たっているんだみたいなことを感じはじめている。
民芸とは何なんだと僕は非常に不思議に思って、益子全体としては民芸でいこうという流れに
なっているけれども、どうも実態が少し違ってきているなという印象をすごく強く持ったんです。

【益子焼と支えてきた職人さん】
それ以来ずっと民芸というのは頭の中に引っ掛かっていて。
今はほとんどそういう末端の職人さんの仕事はないですよね。薪屋さんはいるのかな。
薪割りさんといって頼むと来てくれる職人さん。型屋さんというのもいないですよね。
僕たちの時代にはいっぱいいたんです。型起こしの仕事に来てくれる職人さん。
1週間ぐらい来て、型ものを500個とかつくってくれる。そしてまた次の窯元へ行ってつくる。
忙しいところ回って歩く職人さん。
馬車屋さんは大羽にいたんだけれども、農耕馬を2頭ぐらい持っていて、雨巻山まで行って、
切った松の木を町中の登り窯のところまで引いていくんです。それで、庭先にドンと下ろして、
その後は薪割さんが来て、薪にしていく。
僕は村澤製陶所というところに1年いたのだけれども、馬車屋さんが農耕馬を使って
松の木を雨巻山から下ろすのを目の前で見たりして、なかなかこれは、
登り窯というのは1人でできる仕事じゃないなとすごく強い印象を持ちました。
けれども、そういう職人さんたちがあっという間にいなくなっていってしまった。
その後本当に益子は作家の町になっていくわけですけれども、僕のなかではどうしても引っ掛かっていて、
何とかしなければいけないなという思いがありました。    (つづく)

わかすぎ・しゅう
陶芸家。益子町在住。1948年埼玉県浦和市生まれ。1973年千葉大学工学部工業意匠学科卒業 1974年益子町に移る 
1977年益子町北益子に窯を築き独立 2000年第3回益子陶芸展 審査員特別賞受賞 栃木県立美術館「栃木県美術の20世紀Ⅱ・
千年の扉」展出品 2001年イギリスRufford「日本」展出品 2003年第17回日本陶芸展・入選 第26回長三賞陶芸展・入選 
2004年第5回益子陶芸展・濱田庄司賞受賞 2005年益子陶芸展受賞者展 益子陶芸美術館 2009年東日本伝統工芸展・入選 
2010年第57回日本伝統工芸展・入選 益子の土を使う作家であり、長年、高舘山をはじめとする益子の自然観察を続けている。

すずき・みのる
陶芸家。益子町在住。埼玉県上福岡市出身、早稲田大学教育学部卒。大学のサークルで陶芸を始める。24歳で益子へ移り住み、
高内秀剛さんに師事した後、独立。前回の土祭では、現代アートの展示場になった築百年の古民家改修プロジェクトに参加し、
今回は、益子の土に関する公式ウエブサイトの連載で構成・聞き手を務める。震災後に陶芸家有志が立ち上げたNPO法人「MashikoCeramics and Arts Association(MCAA)」代表も務める。MCAAは、益子焼作家のネットワーク作りや国内外の
交流を進めることなどを目的としている。

若杉集「失われゆく自然から学ぶ」


    若杉さんが益子で生息調査を続けている、希少種のハッチョウトンボ。撮影も若杉さん

益子の土をめぐる対話  陶芸家 若杉 集 |構成・文 陶芸家 鈴木稔

第2回「失われゆく自然から学ぶ」

若杉集さんには独自の視点があります。やきものを始めたころから土に関心を持ち、
益子に来て土を作る職人さんの仕事ぶりに感銘を受けた前回の話からも、
身近にあるものや市井の人々への温かな眼差しを感じます。
その視線は自然生態や環境問題へも注がれました。普通なら見過ごしてしまいそうな、
けれどもとても貴重で後世に残していかなければいけない、そんな生態系や環境。
若杉さんはそれらを守る活動を地道なフィールドワークと共に続けてこられました。
その活動や姿勢は、若杉さんの土への取り組みに通じています。
現在も続けていられる「益子の自然観察会」には、これまで沢山の人々が参加しています。
今回は自然観察と環境保護の活動のお話を紹介します。(鈴木)

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【始まりは自然への興味】
僕は1989年10月から、「益子の自然観察会」というのを1人で立ち上げました。
益子の自然をていねいに見ていこうと、最初は野鳥の観察から始めました。徐々に植物、
昆虫と広げいって、現在も定期的に行って続けています。
環境について取り組むきっかけになったのは農薬の空中散布問題です。
僕も益子に来た当初は何も感じていなかったんだけれども、結婚して子供が生まれて、
初夏の頃、家中にすごく甘い匂いがただよったことがありました。何だこの匂いは?と思って
原因を探ったら、自宅の直ぐ近くまでヘリコプターが来て、
水田に大量に農薬を撒いていたのです。
これは大変だと思って、町役場の農林課に行きました。
「ちょっとまずいと思うんだけれども、大丈夫なんでしょうか」と。
真剣に話を聞いてもらいたかったのですが、詳しいことはわからず、
それなら自分で調べようと思って、素人ながら農薬の勉強を始めたのです。
益子町は農業が主要産業ですから、やはり風当たりは相当強かったのですが、
でもどうしても心配だったから、どんな農薬が使われているのか一生懸命手を尽くして調べました。
その結果、使われていた農薬が人体に悪影響があることがわかって、
危ない農薬の使用を止めるように、いろんなところへお願いに行ったんです。
他所から来た人間が、農家を相手に意見をすることはとても大変なことで、
なかなか聞き入れてもらえなかったのですが、
それから5年後ぐらいに空中散布は行われなくなりました。
その間に学んだ事は、理屈じゃだめなんだということ。
自然がどのような影響を受けているのかを調べ伝えれば、
理解してくれるのではないかという想いで、まず身近な野鳥を知ることから始めました。

【昆虫の生息地調査から得た教訓】
1990年代に、栃木県がゴルフ場開発を規制する方針を発表をしました。
栃木県全面積の5%以下にしようという内容でしたが、5%にしても物凄い広大な面積で、
全国でもゴルフ場がとても多い県です。
そういう指針を出したもので、駆け込みでゴルフ場の開発が一気に増えました。
特に益子には、集中してゴルフ場が入ってきたのです。現在、益子町の面積の7%以上が
ゴルフ場なんですが、最後に大平地区でゴルフ場開発が行なわれることを知りました。
その予定地は小宅川支流の水源地でもあり、すばらしい自然環境が残っている最後の砦みたいな場所でした。
ゴルフ場予定地や周辺にはいくつかの沢があって、いろんな種類のトンボが生息していました。
中でもハッチョウトンボという、宇都宮市では天然記念物になっている珍しいトンボの、
その時点では益子最大の発生地も含まれていました。
そこで主にトンボの生息地調査を行ない、自然環境の保全を訴え、ゴルフ場開発に反対する運動をしました。
開発計画の渦中で理不尽な出来事を目の当たりにして怒りを覚えましたし、その地域の山林が
貴重な水源地であることに加え、なんとか希少なトンボたちの生息地を守ろうと最後まで頑張ったんだけど、
結局ゴルフ場はできてしまいました。そのときの教訓として自然環境の保全を訴えるには、
にわか調査ではダメなんだ、やるなら徹底的にきちんと調査しなければいけないんだと強く感じました。

【フィールドワークから得たもの】
それ以来、ハッチョウトンボの調査は絶対に続けなければいけないと思ったのです。
いずれ何かが起こったときに、いつでも対応出来るように。
益子町の地図を広げてハッチョウトンボがいそうな沢や休耕田を全部ピックアップして、
一つ一つ歩いたんです。全て終わるまでに3年ぐらいを費やしました。
ハッチョウトンボの生息地調査は、かなり完璧に近いものができました。
そのときに益子中のほとんどの沢を歩き回ったので、同時に粘土を探して片っ端から調べました。

このころは、非常に有意義な楽しい時期でした。
調査が進むにつれて、だんだんと益子の粘土の分布状況がわかってきました。
はじめは北郷谷と新福寺の組合の粘土ぐらいしか知らなかったけど、
どうもいろいろな地域に、大量ではないけど少しずつならあるぞということがわかってきて、
ワクワクしました。
ハッチョウトンボの調査と前後して、下大羽地区にサーキット場ができるという話が持ち上がりました。
益子・笠間街道から茂木町に入る手前の東山林道を入ったあたり、
町の境一帯の広大な国有林が売られるということでした。
実はそこの東山林道の沢というのが、希少種を含む多種のトンボが生息する沢で、
たまたまそのあたりを調査をしていました。
これはどうにかしてサーキット場の建設を絶対に止めなければいけないと思い、皆に相談しました。
多くの人が賛同してくれて、自然を生かした町づくり、町民の声が反映する町づくりを旗頭に
「これからの益子を考える連絡会」という団体が作られました。
この団体がサーキット場建設の反対運動を行い、阻止することができました。
このときは、トンボの生息地など自然環境調査が微力ながら役に立ちました。

【小さな運動が大きな波紋となって】
90年代後半から高館山のブナの調査を行いました。
あまり知られていませんが低い標高の高館山に寒冷地種のブナが29本残っています。
ブナの低山地残存分布として特異な地域で、暖地性種シイと分布が重なるとても貴重な自然環境です。
高館山の頂上から経ケ坂まで尾根道が通っているのですが、
そこの道幅を拡張して観光バスが通る道にしようという計画が持ち上がりました。
もし尾根道が拡張されるとブナが切られてしまうので、計画の中止を訴えました。
この計画をきっかけに、高館山の調査を本格的に行うことになったんですが、
とても楽しい活動になりました。
栃木県立博物館や県庁の自然環境課が僕たちにすごく好意的に協力してくれて、
研究者や専門家も交えて、道路の拡張計画地を含む地域の植生調査をやることができたのです。
ものすごい成果があって、高館山北斜面の一部は県の「県立自然公園第一種特別地域」に
格上げになりました。栃木県で2カ所しか指定がされていない素晴らしい環境なんです。
指定地域になって、現在では高館山の北斜面は厳しい規制が行われているので、
もう開発計画は入らないと思っています。
僕たちはブナを守るために高館山に入って、一生懸命植生を調べました。
いろいろな植物があることがどんどんわかって、
高館山の自然は非常におもしろいという調査結果を得ることができました。
その成果は、植生に関する学者さんたちのいくつかの報告書や論文にまとめられていますので、
機会があれば是非読んでいただきたいと思います。

【問題に正面から向き合う】
僕は今、栃木県全域を対象とした「原発いらない栃木の会」というのがあって、
そのなかの放射線計測活動のグループに参加しています。
みんなで共同でお金を出し合って、町役場にあるのと同じ堀場製作所の放射線計測器を購入して、
継続して自分たちの生活範囲のデータを計測していこうという活動をしているんですよ。
ただ、素人がやっていることなので、そのデータを使って裁判を起こすことはできないだろうけど、
概要を知るためには、十分役に立っていて、それで民間の立場から
益子の放射能汚染の状況はだいたいわかってきています。
僕はそれぞれの生産に関連した物や、それぞれの周りの環境がどうなっているのかということを
ある程度客観的に冷静に知っておくべきだと思います。
どういう数値が出ているのか、しっかり調べておく必要がある。
何かのときに対処ができるようにしておかないと。
周囲から指摘されて、「これから調べます」ではダメだと思っています。
皆さんも大騒ぎする必要はないけれど、自分の環境の汚染の度合いはどういう状況か、
自分の作るものがどれだけ影響を受けるのか、それは気が重い仕事だけど、
冷静に知っておくべきだと思う。
そういう対処をしておいたほうがいいと思う。逃げないで、正面から向き合って欲しい。
県の施設(産業技術センター)などを利用して、身の回りのデータを調べておくべきだと僕は思います。
(つづく)

益子 高館山(たかだてやま)の、ブナ

若杉集「益子の人々と風土に導かれて」


                 最後の手濾し粘土職人だった川又さん(昭和48年撮影)

益子の土をめぐる対話  陶芸家 若杉 集 |構成・文 陶芸家 鈴木稔

 周囲からやめたほうがいいと諭されながらも、若杉集さんは土のテストをこつこつと重ね、
益子の土100パーセントの焼締め急須を作ることに成功しました。
その強い意志の背景には、土を作る職人さんへの敬意と益子の風土への慈しみがありました。
人とのかかわりや自然観察を通じて、自分にしかできない仕事を見出した若杉さん。
今回は作家としての歩んでこられた道のりをご紹介します。(鈴木)

第3回 「益子の人々と風土に導かれて」

【独立10年目の転機】
 僕は村澤製陶所等での修行を終えて1977年に独立をしましたが、はじめの10年間は量産ものを中心にやっていました。その間に益子は次第に景気が良くなって、何でも売れる時代になっていきました。
 僕が予見したように職人制度はどんどん消えていき、個人作家が一人で全ての仕事をこなす傾向が強くなっていきました。案の定、かつて10軒以上あった北郷谷の手漉し粘土屋さんは次々と廃業してしまって、僕がお世話になった川又さんが最後の1軒になり、とうとう1986年にやめることになりました。何とか存続できるように手を尽くしたのですが、結局最後に5トンの粘土を作って閉めてしまいました。もう2度と手に入らなくなる川又さんの最後の手漉し粘土5トンのうち2トンを、益子焼共同組合を通して買いました。 
 2トンというと、ご飯茶碗とか湯呑みとか、量産すればあっという間に使ってしまう量なので、これはもったいないなと思って、どう使おうか散々悩みました。独立時の借り入れも10年ぐらいである程度片付いたので、もう一回原点に戻って、ストレスがたまらないような形で仕事がしたいと思っていた頃でした。

【原点に還る】
 その原点というのは大学時代にさかのぼります。
 千葉大の学生のころ、音丸香先生という方の造形講座に籍を置いていました。彫漆家の先生で、その音丸先生のお父様が音丸耕堂さんという、彫漆の人間国宝だったんです。何層にも何層にも色漆を塗って、それを切って張りつけ、厚い漆の層にしたり組み合わせたりして、さらにそれを彫っていって、きれいな花模様とか、連続模様とかを出して、蓋物を作ったり、香炉を作ったりという仕事をしていました。こんな仕事が人間にできるのかというぐらい、緻密な精巧なものでした。まさに神業です。
 僕はまだ学生だったから、これが工芸だとそのときに思い込んでしまったんです。今でもそう信じているのですけれども、やはり人間というのは極めると、とんでもないことができるなと思ったんです。音丸耕堂さんは99歳まで仕事をしていたと聞いています。もう亡くなられましたけれども、生活は質素で、お会いしたときは和服を着て窓に向かって静かに仕事をされていましたね。植物のスケッチが束となって積んであった記憶があるのですが、それをていねいに彫っておられました。
 1970年代までは、人間国宝はそういう方が多かったと思います。日下田染物工房さんのところに型染めの古い型があります。三重県の伊勢で作られたもので、柿渋を使った和紙で出来ています。伊勢の型紙といわれ、細かい文様を糊で防染するときに使われます。それを作る職人さんが人間国宝になっていたと思います。突き鑿(のみ)というやりかたで、片顎に鑿をあてて、狭い枠に細かく綺麗に穴を開けていくのですが、穴が文様となって整然と並び、機械では出せない、手仕事ならではの揺らぎが生まれます。その仕事を永年やってるので、鑿があたる片顎は硬くなって盛り上がっていました。
 そういう方々が人間国宝に認定されていたので、僕は職人さん対して本当に尊敬の念を持っていましたし、職人さんでも極めれば途轍もないことができると信じて益子に入っていったわけです。
 やきものも自分の思いを突き進めていけば、頑張って何十年もやれば、自分の世界がつくれるだろうと思っていました。今でも実は思っていますけれども、なかなかうまくいきません。ただ、自分でこれをやってみようと思ったことは、とことんやると、自分でも想像したことのないようなことが、きっとできる、人間はそういう力を持っていると思うようになった。それが僕の原点にありました。

【急須に挑む】
 川又さんが作った最後の手漉し粘土を手に入れてから、この貴重な土をどう活かしたらいいか、いろいろと考えました。
 すでに益子の粘土としては良質でしたが、さらにもう一回漉すことで、焼き締め急須を作ることは出来ないかと考えました。細かい作業が好きだし、益子の土の付加価値を上げるためには急須というのはいい仕事なのでないか、とにかくそれでやってみようということで、40歳前後、3年ぐらいかけて、それまでやってきた量産の仕事とダブらせる形で急須の仕事へ移行したんです。
 はじめの頃、益子の土で焼き締めの急須を作っている人がないので、窯業指導所に相談に行きました。職員の見解としては、基本的には無理があるのでやめたほうがいいということでした。特に粘土を水簸(水に溶かしてふるいで漉す)して細かい土にしたいと話したところ、本来の益子の砂目の粘土から珪砂といわれる細かな砂を漉して取り除いてしまうと、たぶん耐火度がぐっと落ちてしまって変形するだろうということを言われました。
 でもやってみなければわからない。土というのは意外と形によって歪まないこともあるし、真っ平らなものをつくればへたるけど、丸い物をつくれば保ったりしますよね。そんなこともあるから、ていねいに丸い急須をつくれば少しは形が保ったりすることもあるし、とにかくやってみようということでやり始めました。
 水簸のやり方にもよりますが、けっこう耐火度が強くて、1260度を超えて焼いても、形を保って潰れないのです。益子の珪砂というのは、もしかしたらガラス質が多いのかもしれない。そうすると、逆にガラス質を取ってしまえば、耐火度が弱くなることはないかもしれない。これはいけそうだなと確信して、一気に急須にシフトしていきました。

【発想の逆転へ】
 陶芸メッセ益子の裏側、明智鉱業の隣に神谷茂さんが作っている日陰粘土があります。陶芸メッセの建物がある高台の北側一帯が日陰と呼ばれている土地で、そう名付けられたようです。以前は陶芸メッセの裏斜面付近を深く掘っていましたが、現在は採掘は終了して、掘り出して貯めてある原土の山を漉して粘土を作っています。
 神谷さんが掘っていた鉄分を多く含む日陰黄土は益子で一番良質な黄土と言われていました。真っ黄色な黄土で、濱田窯や塚本製陶所とか、大きな窯元はみんな使っていました。日陰の黄土は主に化粧泥として使われていて糠釉を掛けると良い色に焼きあがりました。耐火度が低いので、本体を作る土として単味で使われることはありませんでした。
 それを分けてもらって、僕もはじめは化粧泥に使っていましたが、この黄土を本体の素地として使ってみようと思いました。原土を漉して作った粘土は、何とかロクロが引けるのです。鉄分が多い土だから、やはり温度管理をきちんとしなければいけないのですが、1220度ぐらいまで焼いても形を保っていました。焼き方によっては、常滑の朱泥みたいなものができることもわかった。今の僕の赤い色の急須はそこから始まっているんです。でも、日陰の黄土が実はもう手に入らなくなってしまい、ほとんど使い切ってしまいました。神谷さんのところで今も赤土として売っているけれども、木節とかいろいろな土が混ざって入ったもので、黄土自体は売っていません。
 その後、原土組合で黄土を売り始まって、山の上を削った土なんだけれども、それも何とか使える黄土なので僕はいまそれを使っています。

【土を探す日々】
 急須を作り始めてから、ハッチョウトンボ等の生息地調査を行うようになって、同時に粘土を探し回りました。3年がかりで益子の沢を全部歩いたので、だんだん益子の粘土の分布状況がわかってきました。益子には異なった性質の土がいろんなところに少しずつ存在するのです。少しだけサンプルを取ってきて焼いてみると、結構ちゃんと焼けたりするので、おもしろくて次々とテストしました。
 急須に使えそうだとなると、法務局へ行って地主さんを探し出して、直接交渉して、土を掘らせてもらいました。掘るのは手作業の範囲で、お金の代わりにその土で焼いた急須を1つ差し上げるという約束で、大体それで了解してもらえました。そんなふうにして使える土を少しずつ増やしていって、最終的に今15種類ぐらいを使用しています。
 それぞれ性質の異なる土をどう使うか。黄土なら耐火度が弱いので低い温度で焼くとか、浅黄土などは耐火度が強いけれども、焼き方を工夫して焼き上がりの色を変化させるとか、僕はなるべく取ってきた土を他の土と混ぜないで急須を作っています。


        川俣さんが廃業してしばらくして手濾し粘土作りの仕事を始めた吉沢仁さん(平成12年撮影)

【土へのこだわり】
 川又さんの手漉し土をどう使うかというところから始まって、急須を作ることになって、いろいろな土に出会っていくことで、今の仕事につながっているというのが、40歳ごろから現在までの、僕の23年間の仕事の流れなんです。
 僕は、そういう意味では土へのこだわりがずっとあったから、作品名に「日陰○○土」とか「川又○○土」とか「吉沢水簸土」とか、職人さんや固有名を必ず入れることにしています。それが僕なりの粘土を作る職人さんへの敬意の表現なので、ずっとそうしてきました。「作家だけに日があたる・・」民芸産地という痛い言葉への、僕なりの回答のつもりです。
 僕の場合には、たまたま自分の中の引っ掛かりが粘土だったので、ずっと粘土にこだわってやってきたのですが、別に粘土でなくても良いのです。益子にはいろいろな素材があるわけだし、あるいは素材でなくてもいいのかな、風土を自分の中に取り込むということでもいいと思うのだけれども、益子とのかかわりを見つけることが大切だと僕は思います。せっかく益子にいるのだから、自分の中の何か益子ならではの部分というのが1つでも見つかると、自分の世界が拓けるのではないかなと思っているんです。
 皆さんも、土でなくて全然構わなくて、何でもいいんだけど、「自分の中の益子探し」をしてほしい。
やはり自分で工夫をして、自分にしかできない仕事を目指してほしいと僕は思います。もちろんそれは身近なところから素材を引っ張り出すことでしかできません。
 そうすると、これだけ多くの若い作家さんがいるんだから、いろいろな益子のバリエーションが出てきて、今よりずっと面白くなるはずです。

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