[5]新町ほか7地区 風土・風景を読み解くつどい 12/15

2009年の第1回土祭のメイン会場となった旧市街地の本通り〜新町・田町・内町、
そして新町から南に繋がる石並、生田目地区と内町から続く栗崎、北益子というエリアで、
つどいを開催しました。

地続きとはいえ、「まち」としての歴史も風景も異なる7つの地区を繋いだのは、
「道」と、その記憶でした。


[新町ほかスライドNo.31]

この地区で、歴史に精通する方々に聞き取りを行ううちに、益子には、
ほぼそのままの形で残っている古道が多いこともわかってきました。
町内の旧家が所有する「益子元禄古図」が使われている『益子の文化財』(下野新聞社刊)の表紙を
聞き取りでお世話になった方が「上下をひっくり返すと、ほら!よくわかる」と
逆さまに(北を上に)して見せてくださいました。
江戸中期に使われていた多くの道が(太平洋戦争での空襲を免れたことなどもあり)
現在もほぼそのままの形で残っています。
廣瀬先生が、古道と今の道を重ね合わせた地図を作成してくださいました。


[新町ほかスライドNo.32]

益子町史別巻『益子の歴史』には、江戸中期以降の益子町は、隣県・茨城県岩瀬町の富谷観音への参詣、
益子内西明寺への参詣の人の流れがあり、「この他村には職人・商人・浪人・瞽女(ごぜ)や座頭・遊芸人等
さまざまな人々が入ってきていた」との記述があります。
益子と「外」を繋ぐ道があり、その道が、今回の7つのエリアを結びながらのびる道と繋がっている。
当時の往来の様子を思い描きながら、日常の道を歩く楽しみも、益子にはまだまだ残っていることを、
参加のみなさんで確認し、子どもの頃の記憶や路上で写された写真をもとに語り合う時間がもてました。

また、大正の頃に、この地区の商店から出荷された益子焼は、道祖土地区のつどいでも話題となったように、
稲藁や麦わらで梱包され馬がひく馬車に積まれて…


[新町ほかスライドNo.42]

…鬼怒川の港まで運ばれ、舟で東京へと運ばれました。
廣瀬先生がスライドで見せて下さったのは、江戸時代から益子町の荷を集荷していた河岸(真岡市柳林)の様子。

[新町ほかスライドNo.45]

そして、益子に鉄道が通ってからのこと。
石並地区にかかる鉄道真岡線の橋梁は、イギリス積みと言われる煉瓦の橋脚をもち、
日本土木学会選奨土木遺産に認定されていることもスライドの中で紹介され、
ご近所の思わぬ宝の存在を新たに知ることもできました。


[新町ほかスライドNo.46]

 

「道」の話題以外にも、この地域ならではの祭りのことや参加の方が持ち寄ってくださった
大正から昭和の時代の写真をみながら、あらためて自分たちの暮らしの場の歴史と風土を捉えなおす時間となりました。


 [新町ほかスライドNo.76]
2009年の土祭で改修し、その後も活用されている築100年の建物、ヒジノワ内より祇園祭の屋台を。

 

何百年も残っている道があり、自然があり、建物があり、それを守る人がいて、生かす人がいて、
町の営みが続いていく。
ともすると「あたりまえ」すぎて埋もれがちなことも掘り起こし、その意味と意義を再確認する…
「風土・風景を読み解くプロジェクト」で開催している地区とのつどいも、残りあと8回となりました。
2015年もこちらのページでお知らせしていきますので、どうぞご注目ください。
新しい年も、益子町・土祭をどうぞよろしくお願い致します。 (土祭事務局 簑田)

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