地域づくりプログラム|益子地区「昔の街並み〜聞き取り調査」第3回~第5回

はじめに

土祭2021の地域づくりプログラムの一つとしてヒジノワメンバーが中心となって行っているものが「昔の街並みと子どもの遊び」。これまでに、益子町内の新町・内町・田町にお住いの方々から5回にわたって聞き取り調査「昔の話を聞く会」が行われました。
これらの結果をもとに、益子の昔の写真や地図を眺めながら思い出話を皆さんで共有し、懐かしい駄菓子屋さんや昔の遊びを楽しむ場が設けられます。こちらのプログラムは当初8月のお盆に開催予定でしたが、コロナの感染拡大を受けて秋に延期となりました。日程が決まりましたら改めてお知らせいたします。
さて今回は、その「昔の話を聞く会」第3回~第5回の様子をお伝えいたします。
※1回目と2回目の内容は、前回のヒジサイブログ(http://hijisai.jp/blog/2021hijisai/community_building/10717/)をご覧ください。
なお、前回と今回の記事につきましては、筆者自身も企画メンバーの一人として携わっていることから、当事者目線的なレポートでお伝えしています。

第3回目(5月19日)

「益子は水で苦労した」
そんなお話から第3回目の聞き取りは始まりました。
お話を伺ったのは、高橋正さん(80代)島谷清さん(90代)岡崎多実子さんの3名。
水に関しては、2015年の土祭の際に行われた「益子の風土・風景を読み解くつどい」(http://hijisai.jp/fudo-fukei/fudo5/)の中でも「新町のあたりは鉄分が多く水がオレンジ色になってしまう。子どもの頃は学校から帰ってきてから井戸へ水汲みに行くのが日常(高橋正則さん)」というお話がありましたが、今回の聞き取りでも
「嫁さんが決まったが、(益子は)水がないからと断られたこともある」(島谷さん)
「小字『亀の尾』は、夕立が降ると水がいっぱいになった」(高橋さん)
という思い出が語られていました。

上下水道が整備されている今では「水の苦労」は想像つかないことですが、数十年前までは水に不自由した生活があたりまえだったのです。

「苦労」という思い出から、やがてお話は戦争の頃のことへ。
「食うものがねえ。着るものがねえ」
「小学校には教科書もない、弁当も持っていけない」
益子は空襲などの直接の被害は受けなかったものの、戦争は日常の生活に影を落としています。
「飛行機を見張る監視台が、小学校の上あたりにあった」
「戦後、益子小学校にいた兵隊が、小貝川の橋から鉄砲をぶん投げた」
身近な風景の中にも、そんな歴史が隠れていました。
一方で、子どもたちは元気です。
「小貝川にかかる塙橋から飛び込んだ」
「下水にいるヒルを取ってきて、それを餌にナマズを取った」
「メジロなどの小鳥を取り、長く鳴くようにしつけた」
第1回の聞き取りでも周りに広がる自然が遊び場だったお話を伺っていましたが、子どもたちはこの風土の中で五感を刺激する遊びを伸び伸びと楽しんでいたことがここでも語られていました。

第4回目(6月17日)

4回目の聞き取り調査では、この界隈の移り変わりや町の歴史に詳しい山口陶芸店の山口孟さん(80代)と、友人の鈴木寿昭さんからお話を伺いました。

「田町はかつて町の中心で、『田町銀座』と呼ばれていた。鹿島神社の角に御影石の基点(町の測量の基準点)が今も残っている」
「旧益子町役場は、衆議院議員だった日下田武氏が要人を招くための別荘を移築した。洋館の洒落た建物だった」
「愛宕山には戦時中に軍の監視所があった。そこには泊まる場所もあって、10人ぐらいが交代で昼夜を問わず見張っていた。コンクリート製の筒の底にいると、飛行音が良く聞こえた」
「草競馬、相撲大会、闘鶏などが当時の娯楽だった。軍鶏(シャモ)を飼っている人が多かった」

「銀座」と呼ばれるほどの人の賑わい、筒の中に入って飛行機の音に耳を澄ます人々、軍鶏を闘わせている歓声…。これまでの聞き取りで伺ってきた話題も、山口さんのお話によって一層活き活きとしたイメージが浮かんできます。それは、そんな日常を経験した方の言葉だからこそなのでしょう。

第5回(6月29日)

聞き取りの最終回となった5回目にお話を伺ったのは、民芸ましこの中山隼男(70代)さん。

町並みの移り変わりについてのさまざまなお話の中から、特に印象に残ったのが、
「中山家は江戸時代に富山から移り住んだ。合群さんのお寺(清浄寺)とともに。」
「益子には昔から人が入ってきている。いわゆる『旧家』は何軒もない」
というお話。
実は私が益子に引っ越してきた時に、不動産屋さんから「ここは半分くらいは移住してきた人だからね」と伺っていたのですが、それは決して最近の事ではなく、昔からそうだったというのが意外でした。古くから続く歴史がある益子町ですが、伝統だけではなく外からやってきた人と地元の人とがうまく混じり合うことでこの町の文化が作られてきたのだと改めて感じました。

そういう町だからこそ、
「テレビが普及する前は、映画の全盛だった」
「鹿島神社の境内に、女子プロレスやサーカスが来た」
という皆が一緒になって楽しめる娯楽は、土地の人と新参者とがその場の空気を共有することで関係を深めるという、「レクリエーション」以上の大切な役割を果たしていたのかもしれません。

5回にわたって9名の方々から伺った、昔の益子町の様子。
町史などをたどれば記録としての歴史を知ることができますが、その場で暮らしていた人々の思いや息遣いを感じるまでには至りません。また、日々変化していく町並みの景色からは、昔の様子をうかがい知ることは難しいことです。
今回の聞き取りで私たちが触れられたのはほんのわずかな部分でしたが、それでも興味深くまたこれからも引き継いでいきたいお話ばかりです。
もともとお住まいの方、余所から益子に移ってきた方、何度も益子に足を運んだ方、さまざまな人ひとりひとりが形作ってきた歴史には、まだまだたくさんの「思い出」があることでしょう。

今後開催予定の「益子地区&ヒジノワ企画『昔の街並みと子どもの遊び~駄菓子屋開店』」の会場では、皆さんが経験してきた思い出を伝えていただく場も設けられます。
開催の折にはぜひ、あなたの記憶にある「いつかの益子町」をお伝え頂くと同時に、この町が過ごしてきた「未知の日常」と出会ってください。

 

(土祭2021レポーター:鈴木利典)

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