小さくても、どこにもない祭り 挾土秀平

土舞台の完成直後の挾土さん(右)と土祭総合プロデューサーの馬場浩史さん。

2009年の夏。
栃木県益子町で、9月に町をあげての祭り・土祭(ヒジサイ)が計画され、
その野外のメインステージとなる壁面をつくることになった。
益子の山や土を見て回り、
焼きもの用の土取り場の地層を、田んぼのまんなかにつくりだすことが決まった。
学生や地元のひとたちと一緒にワークショップをやって、
益子の土をそのまま生かした、どこにもないもの、
「益子がはじめて」というようなものをつくろう。
独自なものをつくれば、独自な空気や独自な世界が生まれる。
そうすることが土祭のいちばんの目的。町には独自性がなければ意味がないと思うからだ。

この壁の制作の話が持ち上がって完成するまでに、僕が益子町に足を踏み入れたのは、
計5回だった。
1度目は、顔合わせと現地確認。
2度目は、仕上げの提案と作業の段取り。
3度目は、幅13メートル高さ3.5メートルの一枚壁の施工
4度目は、舞台となる床面の三和土(たたき)仕上げ(施工)。
5度目は、オープニングの祭典、そしてセミナーの開催。
町の人たちと話し、町の人がつくったご飯を食べ、町の宿に泊まって、
益子のことが少しずつわかってきたころ、
時を超えた地層のように、田んぼの真ん中に立ち上がった壁は、まさに【大胆な自然】
そんな印象で、町からは「土舞台(つちぶたい)」という名をもらった。

9月19日、土祭初日が5度目の益子だった。
新しい祭りは、太平神社での厳かな神事を皮切りに、
町のあちらこちらで、アートや農産物や料理や音楽が訪れる人を迎え、
町全体が皆、新鮮な顔つきをしていた。

その夜、好きだったアーティストの一年に一度の武道館コンサートのチケットが
僕のポケットにあった。行こうと思えば行けたのだが、僕はそうしなかった。
その日の見事な夕焼けが赤く染めた「土舞台」は、日が落ちるほどに際立って浮き立ち、
町の人たちの太鼓の演奏から緊張と興奮が伝わり、
これを見届けよう、ここにいようと思ったのだ。

その演奏はスピーカーが良かったのか?
それとも土壁が跳ね返す反響なのか? ・・・・わからない。

しかし伝わってくる鼓動は、体に食い込むかのように響き渡り、
美しく迫力のあるもので、一度、鳥肌が立った後、
不意に一瞬、ぐっとまぶたが熱くなったことを覚えている。

益子の野外ステージは山や木立のシルエットの闇につつまれ、
だからなおさら、ライトアップされた舞台の壁は、
眼が覚めるくらいに美しい・・・・。
少し遠近感が判らなくなるほどに、鮮明に浮き立って見えていた。

独自な祭りが生まれていた。
町がもっている力、町の外から来た人がもってきた力、
それが渦をまいて、町をつつみ、人の顔を照らし、夜の空に昇っていた。
新しいものをゼロから創作していくのは試行錯誤の連続で、
成功する部分と反省の部分がきっといろいろあるだろう。
しかし、それが地域の独自性をつくることなのだと思う。
アートイベント数ある中、土祭がそういう独自なことを貫いて、
実行していくのは素晴らしい。
最初の祭りから3年。そのあいだに日本にはいろんなことがあった。
いまはますます、小さくてもたしかなもの、どこにもないものを、
つくらなくはいけないときだ、と思う。
そして、2012年の土祭も、またそのようなものであるのだろうと思う。

はさど・しゅうへい
左官、岐阜県高山市在住。2009年土舞台の製作を指揮。

ページの上部へ戻る